遠い箱

精神障害を持つアラ60のヘンテコな毎日と、日々変化する心情を綴ります。

姉妹

読書登録をしているある方のブログを読んで、私は思い至った。

 

私が以前からなんとも不思議で理解できなかった病理に、強迫行動がある。強迫行動に苦しむ人たちは何故、その行動を止めれないのか? 

 

誰もが異なる過去を持ち、異なる資質を持つけれど、機能不全家庭で育ち、異なる病状とはいえども精神疾患を持つまでに至って、いよいよ精神科の門を潜ることを余儀なくされた、そんな人たちは数多く存在する。

 

私と精神科との関わりは20年にもなるが、患者同士の交流をほぼ持たずに過ごしてきた。その上、私は自分が生き抜いていくことに追われて、精神世界とも無縁に生きてきた。そのため自分の病状しか分からない。

 

精神病者を「キチガイ」と呼び、「我が儘ばかり言うと黄色い車(精神病院へ搬送される「キチガイ」が乗る救急車のようなもの)がやってきて連れて行かれるぞ」などと脅かされるような幼年時代を送った私には、現在のソフィスティケートされた心療内科には些か嘘くささを感じてしまう。

 

そういった本気を感じられない医療機関へ、のんきに通う人々は到底「キチガイ」の範疇には入らない(ように思っていた)。つまり、それって詐病じゃないの? などと内心密かに思っていた。流行に弱い人たちがメンヘラブームに乗って、かまってもらいたい一心で、我も我もと症状を偽っているのではないかと疑っていたのだ。

 

私には妹が一人いるが、彼女はいわゆる不潔恐怖というやつで、半径1メートル以内の身の回りを異常なほど整えたり、手に触れるものを片っ端から消毒したりするくせに、1メートル以上離れれていればゴミすら拾わないし、素肌が触れなければ汚れも気にならない。『え? それはイイんだ?』と驚くような一貫性のなさを見せた。彼女のその矛盾を見るにつけ、「女の子は清潔が一番」という刷り込み故の綺麗好きを装う態とらしさを感じたりしたものだ。

 

だけど、だけど、

そんなのありえない! と、想像を凌駕する行動がそこにあった。

 

私は28歳で離婚した経験があり、それ以降は意思表示するようになったが、それ以前は全く意見を言わない人だった。対外的にはにこやかで、従順だった。けれど意思表示したり表立って意見を言わないだけで、自我は確立していたと思う。自分の感情には非常に敏感で、その感情に従い迷わず行動に移せた。

 

行きたくなければ平然と仮病も使えたし、したくなければ尤もらしい言い訳はいくらでも思いついた。殴る父に逆らいはしなかったが、当然のように彼を憎み、その上で持つ殺意にも罪の意識は皆無だった。「殺意を感じる」など、他人から見れば異常と思われるような薄暗い感情は隠し通したが、それを感じることへの自責は微塵もなかった。

 

強迫行動を持つ人は、自分の気持ちを抑え込み、その本心に蓋をして自らを縛り付けることで、行き場を失った感情が行動を引き起こすのだと思った。

 

外からは見えない感情にまで及ぶ支配とは、いかようなものだろう。

そんな支配を背負わされた人は、どれほどの苦しさがあるのだろう。

 

愛されたと自認する母との生活を選んだ妹と、

追い出され疎まれ捨てられた私とでは、

どちらが幸せでどちらが不幸だなんて、一概には言えないのだろう。