遠い箱

精神障害を持つアラ60のヘンテコな毎日と、日々変化する心情を綴ります。

「ダメ人間の終わり」西川芳宏著を読み終えて。

西川芳宏氏の「ダメ人間の終わり」を昨夜読了した。
この書は私にとって実に大きな存在となるだろう、今現在も、そしてこれからの未来も。


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読み終えた時の、あのカタルシス
そして今朝目覚めた時には子供の頃の思いがまざまざと蘇って、子供時代の私がどれほど傷つき、悲しみ、苦しんでいたかを実感した。
この書を読み進めるにあたって、自身が「ダメ人間」であると自覚するに至る、その道程を振り返る必要がある。
内なるモンスターの発見、執着の手放し、意図せずに他人軸になる理由、ダメな要素を見つけその要素を許す作業、発見したモンスターの理解と処理、そして最終章で「ダメ人間」を受け入れる。


本書を読み進めるには、自身の過去と向き合う必要があるため、過去の出来事を幾度となく振り返らねばならない。
そうあったから読了したときに、私自身の人生の悲劇の再現によるカタルシスを体験したのだろう。
読み終えてしばらく...1時間くらいだろうか、その感情の余韻に揺蕩った。


この書は以下の8章からなる。
【第1章】ダメ人間から脱却するためのがんばり
【第2章】あなたがダメ人間である理由
【第3章】ダメ人間から抜け出すアプローチ
【第4章】自分軸と他人軸
【第5章】ダメな要素を見つけ誤解を解く
【第6章】ダメな要素を許す実践例
【第7章】モンスターを処理する
【第8章】ダメ人間を受け入れる


本ブログ記事は本書の解説ではない。
ここではこの書を読み進めるうちに起きた、私の体験談を綴る。


まずは本書との出会いとなったきっかけから。
通所する就労移行支援事業所で私は、現在3回連続で行われる「リソースチェック」というプログラムを受けている。
1回目のプログラムが終了したときに出された宿題で今後の課題を考えたとき、なによりも私に必要なのは「境界線の構築」であることに気づいた。
そして境界線を構築するための方法を、現在お試し期間中のKindle Unlimitedで探すことにした。
検索ワードを「境界線」として幾冊かヒットしたうちの一冊が、「ダメ人間の終わり」だった。


なんとも強烈なタイトルである。
ダメ人間...まさに私のためにあるような名詞。
当事者としては、あまりにも痛すぎる。
それでも軽い気持ちで読んでみた。読み放題なのだから躊躇する必要はない。
そして意外にも、ぐんぐん引き込まれていった。
そして昨日の朝、通所のための電車の中で第6章の「ダメな要素を許す実践例」まで読み終えていた。


ここで昨日の就労移行支援事業所での出来事を。
この日の午前中のプログラムは「ダイアログ」というもので、これは与えられたテーマをグループで対話し、その意味を探求し互いの考えを深め合うワークだ。
昨日のテーマは『あなたにとって「自分らしさ」とは』
私を含め5名のグループでこのテーマに取り組んだ。
次々と各々が考える「自分らしさ」が発表されたが、私がとりわけ感銘を受けたのはO氏の発言だった。
O氏は元々それほど口数の多い人ではないが、昨日の前半は特に発言がなく、そのことに私はひどく気がかりだった。
なぜ全く発言しないのだろう?


そして後半になってO氏はメキメキと本来の洞察力を発揮し、私の心に残る言葉を発することとなる。
彼は意見がなくて沈黙していたのではなかった。静かに人の意見を聞いていたのだ。
そしてその意見を考察して、いよいよ彼はそれらを言葉にした。

ここにそれを記す。

  • その時々で「自分らしさ」は変わる。「自分らしさ」は変化するもの。
  • 感覚的に「いいな」と思える状況が「自分らしさ」が出ているとき。
  • 今この現時点がまさに「自分らしい」
  • 「自分らしさ」は「満足」と連動している。
  • 自分の中の「OK」の割合が高いものが「自分らしさ」


大抵のプログラムは、ワークの後にグループごとの発表がある。
この回の「ダイアログ」でもそのグループ発表の時間が設けられていた。
いつもなら代表で発表するのを避ける私だが、昨日は何としてもO氏語録を発表したかった。
そこで就労移行支援事業所のプログラム中に初めて、代表で発表したいという希望を述べた。
メンバーの誰もが、グループ発表者となることを私が拒絶することを承知している。
代表発表者選択の話し合いで私が立候補したときに、グループ内がざわついた。
「大丈夫?」とO氏。
「はい、大丈夫です。今日ほど感銘を受けたことはないので、Oさんの仰った「自分らしさ」を他のグループの方々にも共有したいから。もう目立つのが嫌とか、そういうこと言ってるのやめにします」


私にあるトラウマの一つが、この「目立つと良いことはない。目立ちたくない」だ。
身長166㎝というと、現代の女性では背が高い方ではあるが、そう大きいという印象はないだろう。
けれど私の青春時代1980年代では、結構な高身長であった。
その上我が家の女性陣である母も妹も小柄で、かつ「女の子は小柄な方が良い。背の高い大女は見っともない」が母の持論だった。何かと言うと「Y美は背が高くて見っともない。可愛そう。男の人から嫌がられる。女性は小さい方が可愛い」と評価される。高身長であることを気に病んだ私は一時期は猫背になったこともあるし(父に注意されて直した)、学校の休み時間などは立ち上がるのが嫌でトイレ以外は自席に座ったまま、ひたすら読書して過ごしたくらいだ。


背が高いというだけで多少なりとも目立つことになるが、美人でもない私は何故か目立つ存在らしく、よく人から「目立つね」と言われる。
声が通る方なのでそれも目立つ原因の一つではあるが、決定的な理由は定かではない。
「芝居じみてる」「態とらしい」とは、母や周囲の女性からよく投げかけられた言葉だ。


そしてこの美人でもない女が「目立つ」のは、中々にいじめの対象となるのだ。
私は「いじめなぞ物ともしない」という態度を示すので、更に憎たらしくて仕方ないのだろう。表面化することはない(私が気づかないふりをしているだけ?)が、陰口はよく言われているようだ。陰口の告げ口はよく聞かされた。
ある企業で勤めたときなどは同期女子グループが組んで「会社辞めさせよう」という企みがあったと、これまた後から聞かされて驚いたこともある。
様々な要素が絡み合って、私は目立たぬよう心がけるようになった。


それが昨日のダイアログで複数の人々と「自分らしさ」を考え、目立っても良いのではないか?「自分らしく』して目立つのなら、それも自然なことなのではないか?自分が自分の意思や判断で必要に応じて振る舞う行為は、全て「自分らしさ」に繋がるのではないか?
そしてまた「ダイアログ」で人の言葉を聞き、私自身の言葉で語るうちに出した「人前での仮面『ペルソナ』さえ自分らしさ。人前で演じてる様々な顔も全て自分」という答えが、人前での発表を実行する手助けとなった。


そして午前中のプログラム終了後のお昼休み、私はいつものごとく一人でコーヒースタンドへ向かった。
入れたての珈琲を飲みながら読みかけの本書を開き、第7章「モンスターを処理する」に取り掛かる。
すると、ここで挙げられるニーズの例が「目立ってはいけない」なのだった。
その文字が目に飛び込んだ時の驚きと言ったら...。


そして私がたった一つの心の拠り所としてしがみ付いている、小学生から中学生にかけて繰り返し受けさせられたI.Qテストの結果、「I.Qが160」であること。
中学生になってから低下していく成績について、周囲の大人たちに言われ続けた言葉。
「頭が良いのにサボっているから成績が下がる」
「I.Qが高いのに成績が下がるのは怠けているから」
「頭が良いのだから勉強すれば成績が上がるはずだ」


当時の私自身は勉強をサボっているわけではなく、ただもう悩みや辛いことが多すぎて頭の中がいっぱいいっぱいだったのだ。
それはもう悲しみではち切れそうな状態だった。
父と母の激烈な夫婦喧嘩と、母の飲酒問題や言葉による暴力、父からの躾と称する力の暴力や叱責、自身の無価値観、自責の念、そんな中で勉強など手につくはずがない。
加えて胸の内を打ち明ける相手が誰一人として存在しないことへの、痛烈な孤独感。
机について教科書を広げても、勉強が全く頭に入ってこない日々を送っていたのだ。


その後、ますます勉強に身が入らなくなり、いくつもの学校を中途退学した結果、私に残りしがみ付けたのはかつてあれほど苦しめられてきた、I.Qの高さだけだった。
自己肯定できるたった一つのものが過去のI.Qだけ、だなんて...。


本書のワークを丁寧に繰り返すことによって、私のこの悲しい価値観を手放せる日がそう遠くない未来に訪れると今、期待している。
本書は私にとって実に腑に落ちることの連続で、胸の奥でモヤモヤしていて、意識はしているけれど言語化できないものが明確になった。
そして本書の最後にあるこの一文は、これから私の生きていく上での指針となるだろう。



「価値」よりも「ハート」で生きる。


私もいつか、「価値」よりも「ハート」で生きられる人になりたい。