遠い箱

精神障害を持つアラ60のヘンテコな毎日と、日々変化する心情を綴ります。

前言撤回。

日本テーラワーダ仏教協会のホームページにある「新着の法話」、「怒りの無条件降伏」を読んで「私は仏教徒です」と世間で聞かない理由が分かった。

躾の言葉として、これ以上は言えませんね。卑しい人々、卑しいと言うか、できの悪い凶暴な賊たちが来て、あなたをつかまえてノコギリで手足を切断しようとする。その時でも、あなたの心が動揺したならば、もう私の教えを実践する者ではありません。その場合でも賊たちに慈悲を向けなさい、とおっしゃるのです。相手が極悪人であろうとも、怨敵、仇敵であろうとも、釈尊の教えを尊重する者は、その人々に対して「幸福でありますように」と慈しみを育てるべきなのです。敵討ち、仇討ち、仕返し、報復、恨みつらみなどは、仏教ではもってのほかなのです。

怒りの無条件降伏 | 8ページ目 (10ページ中) | 日本テーラワーダ仏教協会>たとえノコギリで切られても より


これはもうどう考えても、私には不可能だ。
よって、9月8日の本ブログ記事「そういえば、「私は仏教徒です」と公言する人と出会ったことがない?」で公言した「私は仏教徒です」は撤回する。


口が裂けても仏教徒であるとは言えない。
言わないのではなく、言えない。


今日だけでも他愛もないことで私は、4回も怒りを感じている。
駅員の対応、就労移行支援事業所のとあるスタッフの対応、とある利用者の対応、ショップ店員の対応。
同じ立場である利用者以外には、相手が示した感じの悪い態度とほぼ同等の感じの悪さで返した私。
同じ立場の利用者は、私の子供…いや孫でもおかしくない年齢の人なので流石に堪えたが、その他の人々には自分でも呆れるくらい嫌な態度をとった。
そんな態度をとってもスッキリするどころか、うんざりしかしない。


就労移行支援事業所の利用者Bさんは、一緒にいるだけで心が和む。
穏やかで優しい彼の醸し出す空気感に、癒されまくる。


難しいとも思うけれど、今後怒りが無くなる方向で瞑想に励みたい。
しかしながら生きている間に「私は仏教徒です」と公言できる日が訪れるかは、全くの謎。
今のところその可能性は、限りなくゼロだ。


それでも全くのゼロではないのよね?