楽園
ブログは日記なので、日々の出来事をその日のうちに書き上げるのが望ましいのかも知れない。
けれど、まぁ、誰のためでもなく、自分自身のための記録なのだからと気楽に構えた方が、私のような脅迫概念の持ち主には却って継続しやすいと思う。
今日のブログ更新しなきゃ、更新しなきゃ、更新しなきゃ、
と焦りつつも、どうにも更新できない(しない?)自分に苛立ち、自己嫌悪に陥るという、健康な精神の持ち主には実に不可解な精神構造を私は持っている。
随分長く、と言うか、物心ついた頃にはこの調子だったから、不安感の落とし所は身についているようだ。
先日、新しく受診した際の、精神科医が診断した病名は双極性障害だった。
どんな診断をされようと結局、私自身もこの結果が一番しっくりとくる。
精神の状態というものは外から見えないものだから、患者が嘘の申告をしても、治療者の思い込みであろうとも、判断を下すのは治療者側なわけで、なにをもって正解と断定できるものではないだろう。患者を一目見た途端に病名が解るほどの名医が、果たして存在するのだろうか。
精神の崩壊が著しくなければ、何よりも当事者が己の精神状態を分かっているのではないか。
自分では何となく気づいているその病名や状態を自認したくないから、専門家の意見が当事者にも必要となる。
それにしても自らの症状や状態を認めたくないという意識が、あるいは専門家への嘘の申告となるのかも知れない。
真剣に治したいと願うなら誠実に伝えるはずだけれど、患者の様々な思惑は真実を覆い隠す。
真相は藪の中。
見つけるのは至難の技なのかも知れない。
昨日私は、自立支援受給の医療機関変更のために、地域の保健福祉センターへ出向いた。
長年憧れ続けた医療者の悲しい現実に気づき、今回医療機関を変えることを決意した。
1996年から20年以上もの間、憧れ続けたその人は、過去の名声で防御した単なる守銭奴と化したと気づいたからだ。
先日、いわゆる普通の心療内科での1時間弱の診察で行われたのは問診と精神科医によるカウンセリング、たった1時間でも彼は私を双極性障害と診断した。
私は真に治療を受けたいから、勿論いつだって協力的だ。
憧憬の彼の医師は9ヶ月もの間、治療という治療を施していない。統合失調症ではないとは断言したものの、病名も今後の治療方針も一切説明しなかったのだ。
9ヶ月間で、彼の診察を受けたのは4回程度だろうか。何しろ著名なお方だし、ご多忙のようなので軽々しく診察しない。やっと診ていただいたものの、残念ながら印象に残るほどの診察内容は皆無で、彼の診察回数が定かではない。
常日頃は側近たちや従者たちに恭しく傅かれ、私のような新参者は遠巻きにその姿を垣間見る。特別な診察室へと招かれるには、診察希望を受付に提出してから暫くの期間を要するのだ。
20年余り精神病院との付き合いがある私ではあるが、至って普通の精神病院しか知らずに過ごした。その独特な精神医療機関に転院したての頃、私はすっかり度肝を抜かれた。
まずは院内の不潔さに驚いた。憧れが過ぎてパラダイス的な、勝手な空想を膨らませた私も私ではあるが、如何せん埃っぽいのだ。建物の老朽化は致し方ないとしても、病院という施設なのに掃除が行き届いていないようだ。
清潔で機能的な院内しか見たことのなかった私には、これだけでもカルチャーショックを受けた。
加えて一部の看護師の仕切り方や、一部のスタッフの優越に浸った上から目線やら、仕舞いにはあの患者たちの熱狂ぶりだ。
白々とした気分が広がってゆくばかり。
そこへ転院した初診日に、15年間生活を共にした愛猫が老衰死した。
かつての名声といえど、初診予約に3週間もの期間を要す。
すっかり年老いたとはいえ、この調子だと20年選手かもよと思うほど元気だった彼女は、待ち望んだ予約日の1週間前から急激に体調を崩し始めた。3日前には歩けないほどに。
不安になって連れ合いに問う。
「どうしよう、予約キャンセルしようかな? 病院へ行って留守の間に死んじゃう気がする」
連れ合いは簡単に答える。
「大丈夫だろ、鈴ちゃんはまだ死なない、あんなに行きがってたんだから自分の意思を貫き通せ」
あの日、帰って来た時に冷たくなっていた鈴ちゃんを思い出すたび、途中で投げ出して何の成果もなかったなんて、後悔だけで終わらせたくないと思った。
終わりにした今、後悔しないほどそこで何かを見つけられたか? と問われたら、私は何と答えるだろう。
鈴ちゃんの臨終に立ち会えなかったこと。
鈴ちゃんが独りぼっちで逝ったときのこと。
猫だけど、猫だから、
たとえ其処へ居たとしても、
猫の気持ちは分からない。
私の後悔がそこにあるだけ。
けれど、全てが今。
ここにある、今が全て。