遠い箱

精神障害を持つアラ60のヘンテコな毎日と、日々変化する心情を綴ります。

一番の心配は

昨日、出かける直前に担当の保健士から電話があった。

若々しい声が、その人の名を名乗った時、私の感じていた怒りはすっと消えていた。

その電話は約束の時間から2時間近く経過していたのだけれど、時間指定したのはご本人ではなく他の職員だったから、その誠実そうな穏やかな声を聞いた途端に、私の怒りは不当だと思い直したからだ。

 

先日、私が話をした担当代理からは引き継ぎをしたとのことで、もう少し詳しく話を聞きたいと言う。

本日は失業認定日で、これからハローワークへ行かなければならないこと、その後歯科医院の予約が入っていることを伝えた。

なかなか多忙とのことで日程調整が難しく、本日なら空いているとのことだった。

私の歯の治療より夫の相談の方が私自身には重要だったから、歯科医院はキャンセルして保健士に会うことを選んだ。

 失業認定にかかる時間さっと計算し、15時半に会う約束をして電話を切った。

 

午後のハローワークは思いの外混み合っていた。私は通常、午前中にハローワークへ行くので、午後の時間がこれほど混雑するとは思っていなかった。加えて職員の人数もいつもより少ない。なかなか回ってこない私の順番に、このままでは約束の時間に間に合わないという焦りが募る。

順番が回ってきたのは15時を過ぎていて、これでは確実に約束時間には間に合わない。私は失業認定申告書を職員に渡すと席を外し、保健師に電話を入れて遅刻する旨を伝えた。確認事項が多いとのことで、16時10分までの入所が必要なようだった。

 

失業認定の手続きが終了したのは15時30分を回っていた。急ぎに急げばギリギリ間に合う、そう思って私は保険福祉センターへ急ぎ、16時を少し過ぎて保険福祉センターへ着いた。

 

担当の保健士は、とても可愛らしい顔立ちの20代の女性だった。話をする彼女には熱意と同情心があり、私は彼女に好意を持った。私たちは1時間ほど話をした。

 

夫の現在の飲酒傾向を聞いた担当保健士の判断は、飲酒問題は重症ではないようだが、健康面での問題がありそうなので早急に検査を受けた方が良いとのことだった。月2回、区で行われている「飲酒の悩み相談会」には家族ミーティングもあると聞く。来週の参加を約束して面談は終了となった。

最後に彼女が私に聞いた。

「今、Mさんにとって一番心配なのは何ですか?」

 

十年以上前になるが母のアルコール問題を何とかしようと奔走していた頃、私は母と断酒会に通っていた時期がある。

長く苦しめられた母のアルコール問題は、父の死後、母との同居を決めた妹が遺産相続したことで、私からは離れた問題になるはずだった。

自分なら母と上手くやっていけると豪語していた妹だが、同居すると間もなく母と諍いを起こし始めた。母と妹は頻繁に喧嘩をして、その度に母は私の家を訪れた。

父の死から十年ほど経過した頃には、妹の子ども達までもが母のアルコール問題の影響を受け始めていた。私の甥にあたる長男はいじめっ子となり、次男は登校拒否を起こし始めていたのだ。

 

父の生前から母の飲酒を問題視していた私は、何とか母をアルコール問題を専門とする治療機関へ繋げようと躍起だっていた一時期がある。父や妹に治療の必要性を説いていたが、全く相手にされなかった。

父は母の入院を考えていたこともあったようだ、しかし、その話を母にした途端に、失禁して怯える母を見て気の毒になり入院を取りやめたと話した。

「あいつは娘時代に精神病院へ入院したことがあったらしくてな、そこでずいぶん酷い目にあったって言うから...」

その当時すでに独立していた私は、父の判断なら仕方ないと、それ以上の説得は諦めてしまった。

 

その後、多発勢骨髄腫になった父は、

「俺が死んだら、お前達はお母さんと一緒に住むんじゃないぞ。あいつと住んだら大変なことになる。あいつが生きていけるくらいのものは残すから、お前達は別々に暮らしてたまに奴に会いに行ってやるだけでいい」

と常々私と妹に言い聞かせた。

財産が欲しかった妹は、父の思いを無視して母との暮らしを選んだのだ。

 

その際にも私は妹に助言した。

どうしてもお母さんと同居するのなら、まずはアルコール依存症の治療をしなくちゃ。H美は可愛がられて育ったから、お母さんの本当の恐ろしさを理解していないけれど。私がいなければ今まで私に向けられていたことが全部、H美に向けられるかも知れない。そうならなくても家族が大変なことになる。

妹は鼻で笑い、「お姉ちゃんと私は違うから」と簡単にこの話を終わらせてしまった。

妹の家族にどんなことが起きようと自業自得、私には関係のないこと、と切り捨ててしまえば良かったが、私にはそれができずにいた。

父の死から十年を経て、甥達が母の犠牲になっているのだ。なんとかして彼らを救い出さなくては。それには母のアルコール問題を解決するしかない。

その当時ブログをしていた私は、アルコール依存症の当事者の方々と繋がっていて、その方々のブログで断酒会やAAの存在を知った。

ある日電話で母にそのことを話すと、意外にも簡単に「お酒をやめたい」と返ってきた。

 

機が熟した?!

 

私は断酒会とAAから資料を取り寄せた。資料によると断酒会は当事者と家族が共にミーティングに参加できるようだった。母一人で自助グループへ通うわけがないため、断酒会を選んだ。母を私の家で預かり、二人で毎日断酒会に通った。

 

素面の母は優しくて穏やかで、私は一時の幸せを味わった。

幸せな時間は長続きしなかった。優しい母に、私の甘えが出てしまったから。

お刺身が食べたいと言う母に買って食べさせた翌日の夕食、残りのお刺身を漬け丼にして母と食べた。

美味しそうに食べる母の顔を見ているうちに、唐突な悲しみが込み上げてきた。

「お母さん、どうして私だけに酷いことをしたの? お母さんはH美だけ可愛くて、私は可愛くなかったの? 私のこと少しは愛してくれてたの?」

泣きながら訴える私に、困惑した母は、

「なんだい、いきなり...。今、食べてるんだから、そんなこと聞かないでよ」

私の奥で何かが炸裂して、一挙に怒りが湧き上がった。

「お母さんはいつもそう! なんで愛してるって言ってくれないの? 嘘でもいいから言ってくれてもいいじゃない! 愛してるって言ってよ!」

声を立てて泣きじゃくる私を少し驚いたように横目で見ながら、それでも母は箸を止めなかった。

 

翌朝、母の寝泊まりする部屋へ入ると、身支度した母が言った。

「そろそろH美のところへ帰るよ。駅まで送って行っておくれ」

こうなると分かっていた私は黙って頷いて、母を駅まで送った。

別れ際に「家族のため、お母さんのためにも断酒会は続けてね」と言い添えた。

あれ以来、十年以上母とは会っていない。

その後、母は飲酒して断酒会へ行き、支部長から注意を受けるとすぐに足を遠のけてしまったようだ。

 

あの頃、私は知ったのだ、共依存が配偶者をアルコール依存症にすると。

送られてきた断酒会のリーフレットにあった

アルコール依存症の子どもであるあなたは共依存ではありませんか?」

あの一文が今でも私の胸の奥にあって、私を責め続けている。

 

「夫のアルコール問題が、私が思っているほど深刻ではないと伺ってホッとしています。そうですね私は、私が原因で夫のアルコール依存を深めるのではないかと、自責の念に囚われることが辛いのです。夫の問題より私は、私自身の感じる苦しさに耐えられないんです。夫が飲酒するたびに私のせいなのかと不安になります。辛くて苦しくて悲しくて、自分がどうにかなるんじゃないかと心配になるのです。

私の一番の心配事は夫のことではなく、私自身のことです」